能代川の柳2009/02/04 20:45

能代川しんかな菜園
新潟の冬らしからぬ2月で、今日も天気が良かったので久しぶりに能代川のしんかな菜園を訪れた。
昨年秋に利用者が集まって草取りをしたが、岸辺の柳はそのままで菜園からは水面を見ることができなかった。
そのため、昨年11月終わりと12月の初めの2回にわたり、「川を活かす会」のメンバーが柳の木の刈り倒しを行った。
その、時私は参加できなかっただが、どんな様子になったのか気になっていたので、天気に誘われて見てきた。
しんかな菜園のある金盛橋から柄目木大橋の間の右岸側岸辺の柳はすっかり切り倒されていた。
これまで高水敷の菜園でありながら、水面がみられず川辺であることをあまり感じることができなかったが、今はどこからでも水面を見ることができるようになった。
しかしながら、心配な面もある。柳の木が無くなったことにより、菜園への風当たりが強くなるのではないかということだ。
この結果はわからないが、今年もまた多くの利用者で賑わう能代川であってほしいものだ。

新津川と石油2009/02/04 21:00

新津川の石油
新津川はもともとは能代川本川であった。新津市街地の中心部を流れていた能代川は川幅が狭く、豪雨の度に氾濫を繰り返していた。
昭和22年から本格的な改修が始められ、昭和58年には市街地を迂回する捷水路が完成し、本川は新津川と名前が改められた。
捷水路完成後の新津川は水量も減り、水質が悪くなり葦藪となってしまった。このため、平成5年から新津川の環境整備事業が始まり、ほぼ全川が整備された。
この新津地区は戦前の一時期、石油景気で湧きあがったことがある。能代川沿いには数多くの石油採掘の櫓が立ち並んでいたという。平成5年当時には櫓が一本だけ残っていたが、今はなくなってしまった。
しかし今でもあちこちで石油がいまだに自噴し、新津川に流れ込んでいる。そのため、新津川にはいつも油膜が見られる。
平成16年10月の中越地震の10日くらい前には新津川のすぐ脇で、石油を採掘していた跡から石油が自噴して、新津川に大量に流れ込んだ。その当時、これは地震の予兆現象だったのかと騒がれた。そして、新津川自体の河底からも新たに石油が湧き出した。未だに湧き出しとは言わないまでも、川底から石油が浸み出している。

河川防災フォーラムと柿川2009/02/28 18:00

かつての長岡城外堀であった柿川
今日は長岡市中央公民館で河川防災フォーラム-市民の目で考える河川防災-が開催されたので参加してきた。主催はNPO法人水環境技術研究会である。
第1部の講演会では長岡技術科学大学、国土交通省信濃川河川事務所、新潟県長岡振興局、長岡市からの講師がそれぞれ洪水防御、信濃川水系河川整備計画、柿川治水計画と猿橋川災害復旧助成事業、洪水ハザードマップについて講演し、第2部のパネルディスカッションでは講師のほかに市民も加わり、河川整備計画、住民参加、洪水避難計画、災害復旧工事などについて意見交換が行われた。
川と人との付き合い方(人と川とのふれあい方)の変化や行政の頑張りと市民の無関心などに対して、行政の技術者(河川管理者)が市民を再び川に近付ける努力をしなければならないことが示されたが同感である。
さて、第1部で治水計画が紹介された柿川は会場である長岡市中央公民館の脇を流れている。
この柿川は江戸時代には長岡城の外堀の役目を果たしていた。流れはその当時と全く同じである。それがゆえに川幅も当時のままでたびたび浸水被害が起きていた。
そのため昭和40年代に山地部流域を栖吉川を付け替える放水路工事が行われ、放水路は現在では新柿川と呼ばれている。
しかしその後、流域の都市化が進み、再び浸水被害が発生するようになった。その抜本的な対策として新たな放水路が計画されている。今度は太田川の下流部に向けての放水路である。そして開水路ではなく市街地の道路の下を通る暗渠水路(ボックス)であり、難工事が予想される。現在は実施に向けての調査設計が県の長岡地域振興局により進められている。