鳥屋野潟 ― 2008/04/29 18:00
今日は「昭和の日」、以前は「緑の日」だった。未だにピンと来ない。「緑の日」の方がふさわしい。今日の新潟はまさに新緑の季節を迎えている。
桜で有名な鳥屋野潟に新緑を訪ねてきました。
鳥屋野潟は文字どおり「潟」ですが、信濃川水系の一級河川で、流域面積は約100km²で、潟の面積は約140haです。
鳥屋野潟は信濃川、阿賀野川、小阿賀野川そして日本海に囲まれた亀田郷の排水を集め、親松排水路を通じて親松排水機場で信濃川に排水しています。
鳥屋野潟の普段の水位は海面下2.5mのため、普段でも排水機場での排水が必要となっています。そのため、潟周辺では大雨の度に浸水し、平成10年8月の豪雨では大きな被害を受けました。
今日は新潟市中央区女池にある鳥屋野潟公園(女池地区)の駐車場に車を止めて、潟を一周しました。ここには県立自然科学博物館や県立図書館もあります。
まずは公園の「水辺の広場」の展望台に昇り、潟を見渡しました。対岸には「東北電力ビックスワン」が見えます。ここでは平成14年にワールドカップサッカーが開催され、今ではアルビレックス新潟のホームグラウンドとなっています。
桜で有名な鳥屋野潟に新緑を訪ねてきました。
鳥屋野潟は文字どおり「潟」ですが、信濃川水系の一級河川で、流域面積は約100km²で、潟の面積は約140haです。
鳥屋野潟は信濃川、阿賀野川、小阿賀野川そして日本海に囲まれた亀田郷の排水を集め、親松排水路を通じて親松排水機場で信濃川に排水しています。
鳥屋野潟の普段の水位は海面下2.5mのため、普段でも排水機場での排水が必要となっています。そのため、潟周辺では大雨の度に浸水し、平成10年8月の豪雨では大きな被害を受けました。
今日は新潟市中央区女池にある鳥屋野潟公園(女池地区)の駐車場に車を止めて、潟を一周しました。ここには県立自然科学博物館や県立図書館もあります。
まずは公園の「水辺の広場」の展望台に昇り、潟を見渡しました。対岸には「東北電力ビックスワン」が見えます。ここでは平成14年にワールドカップサッカーが開催され、今ではアルビレックス新潟のホームグラウンドとなっています。
西川(その5) ― 2008/04/20 18:40
ここで大河の名残の一つを紹介したい。
写真右側の道路は昔の堤防で、左側の住宅の後ろに現在の堤防があり、川が流れている。
右側の道路の路肩には篠竹が一列に生えていて、その後ろに昔からの民家がある。この篠竹は今で言う「水害防備林」の役目を果たしていた。
洪水で溢水したとしても篠竹で流速が落ちるとともに土砂を置いていく。このために住宅に大きな被害が生じることもない。それに加えて、篠竹の根が張ることにより、堤防が欠けることも防いでいる。
このように堤防の堤内地側に篠竹などが生い茂っている例は越後平野の随所に見られる。信濃川や中之口川でも堤防道路を走っていると至る所にある。
昔の人たちはこうして、地域のことは地域自らで守ってきた。現代のような河川改修が行われる前は当たり前に行われていた知恵であり、水防技術であった。
写真右側の道路は昔の堤防で、左側の住宅の後ろに現在の堤防があり、川が流れている。
右側の道路の路肩には篠竹が一列に生えていて、その後ろに昔からの民家がある。この篠竹は今で言う「水害防備林」の役目を果たしていた。
洪水で溢水したとしても篠竹で流速が落ちるとともに土砂を置いていく。このために住宅に大きな被害が生じることもない。それに加えて、篠竹の根が張ることにより、堤防が欠けることも防いでいる。
このように堤防の堤内地側に篠竹などが生い茂っている例は越後平野の随所に見られる。信濃川や中之口川でも堤防道路を走っていると至る所にある。
昔の人たちはこうして、地域のことは地域自らで守ってきた。現代のような河川改修が行われる前は当たり前に行われていた知恵であり、水防技術であった。
西川(その4) ― 2008/04/20 18:30
平島橋を過ぎるとすぐに鉄橋が架かっている。これは新潟電鉄の廃線に架かる鋼製の下路式プレートガーターの橋だ。廃線になってもう何年経つだろうか。黒埼に引っ越してきてから、県庁に通うのに何回か乗ったことがある。
平島橋から小針橋までの間は、左岸側に川沿いの道はない。
右岸側もしばらくは車道のみで歩行者がゆっくり歩く空間はなく、車を気にしながら上流に向かう。
この辺の西川は天井川となっていて、普段の水位も家屋の2階レベルより高い。
しばらく上流に向かって歩くと車道は二股に分かれ、一方は堤防を降りる。今回は当然ながら堤防を降りない右側の道路を行く。こちらは車も殆ど通らず安心して歩ける。
堤防の上のはずなのに川面が見えなくなった。なんと堤防と川面との間に家が建っているのだ。これが信濃西川の名残である。
その頃は川幅が広かったが、用水河川となった後は必要な川幅は狭くなり、その間が戦後に宅地化されたのだ。左岸側も同様でそのために歩けなかったのだ。昔の名残はその他にも随所に見られる。
平島橋から小針橋までの間は、左岸側に川沿いの道はない。
右岸側もしばらくは車道のみで歩行者がゆっくり歩く空間はなく、車を気にしながら上流に向かう。
この辺の西川は天井川となっていて、普段の水位も家屋の2階レベルより高い。
しばらく上流に向かって歩くと車道は二股に分かれ、一方は堤防を降りる。今回は当然ながら堤防を降りない右側の道路を行く。こちらは車も殆ど通らず安心して歩ける。
堤防の上のはずなのに川面が見えなくなった。なんと堤防と川面との間に家が建っているのだ。これが信濃西川の名残である。
その頃は川幅が広かったが、用水河川となった後は必要な川幅は狭くなり、その間が戦後に宅地化されたのだ。左岸側も同様でそのために歩けなかったのだ。昔の名残はその他にも随所に見られる。
西川(その3) ― 2008/04/20 18:20
西川水門の近くに車を停めて、さあ、出発だ。
4月も20日となり、桜のシーズンも終わりを告げているが、まだまだ新緑には遠いが、チューリップや菜の花が出迎えてくれるはずだ。
西川水門は開いていて、川の流れは緩やかで清流とは言えない。
信濃川の堤防から左岸側の堤防を降りる。
まず、目に付くのは河川管理区域境界標だ。信濃川は一級河川で、国土交通省の管理だ。そこに合流する西川の水門と排水機場も国土交通省の管理となっている。水門は堤防の機能を有するものであり、そのことから一般的に水門は本川を管理するものが管理している。
この境界標から上流が新潟県の管理である。
ここから県道の平島橋まで、左岸側は人が歩ける程度の道がついている。右岸側は道が繋がっていないので、左岸側を歩く。
護岸は両岸とも鋼矢板である。ここから内野の手前まで殆どがこのような護岸である。
水面には上流から流れてきたのだろうか。桜の花びらがあちらこちらに浮いている。
護岸には多くの小型のレジャーボートが繋がれている。ここを基地にして日本海まで出ていくのだろうか。しかし、その横には係留禁止の立て札がある。河川は自由使用が原則で、占用的な利用は原則として認められていない。船舶の係留は洪水時に流されて橋梁などに引っかかるなど問題があるため認められていない。
このあたりの右岸側は小新、左岸側は平島であり、川の近くには古くからの集落がある。中には大きな敷地と屋敷もある。
歩き始めて、5分程度で平島橋に着いた。
その上流に鉄橋が見える。
4月も20日となり、桜のシーズンも終わりを告げているが、まだまだ新緑には遠いが、チューリップや菜の花が出迎えてくれるはずだ。
西川水門は開いていて、川の流れは緩やかで清流とは言えない。
信濃川の堤防から左岸側の堤防を降りる。
まず、目に付くのは河川管理区域境界標だ。信濃川は一級河川で、国土交通省の管理だ。そこに合流する西川の水門と排水機場も国土交通省の管理となっている。水門は堤防の機能を有するものであり、そのことから一般的に水門は本川を管理するものが管理している。
この境界標から上流が新潟県の管理である。
ここから県道の平島橋まで、左岸側は人が歩ける程度の道がついている。右岸側は道が繋がっていないので、左岸側を歩く。
護岸は両岸とも鋼矢板である。ここから内野の手前まで殆どがこのような護岸である。
水面には上流から流れてきたのだろうか。桜の花びらがあちらこちらに浮いている。
護岸には多くの小型のレジャーボートが繋がれている。ここを基地にして日本海まで出ていくのだろうか。しかし、その横には係留禁止の立て札がある。河川は自由使用が原則で、占用的な利用は原則として認められていない。船舶の係留は洪水時に流されて橋梁などに引っかかるなど問題があるため認められていない。
このあたりの右岸側は小新、左岸側は平島であり、川の近くには古くからの集落がある。中には大きな敷地と屋敷もある。
歩き始めて、5分程度で平島橋に着いた。
その上流に鉄橋が見える。
西川(その2) ― 2008/04/20 18:10
西川水路橋の話をしたい。
この橋は新潟市西区の内野地区にあり、二級河川新川を横断して架かっている。国道116号を巻方面から来ると、曽和の交差点でまっすぐに新潟西バイパスを行かずに、左折するとすぐに槇尾大橋があり、その左手の下流側にある。
その起源は江戸時代後期に遡る。その当時西川は既に用水河川となり、その河床は高くなっていた。そのため鎧潟、田潟、大潟などのあった西蒲原地域の排水を受け持つ早通川を直接に日本海に落とすために計画されたものが新川(放水路)だった。
文字どおりの新川であり、西川の下を木製の底樋で抜き、内野の砂丘を切り崩すという難工事であった。足掛け3年の工事により文政3年(1820年)に完成した。
この時点で、川の立体交差ができあがった。その後木製の底樋は大正時代にレンガを使ったアーチ型のものとなり、昭和30年に現在の水路橋となった。
この新川完成以後、西蒲原地域の潟の干拓は徐々に進み、昭和41年には最後となった鎧潟の干拓が終わった。
いまではこの西川水路橋と新川を核に、「越後新川まちおこしの会」が中心となって、内野地区のまちづくりをやっている。
写真にあるように昇り旗が水路橋に掲げられている。
私も4年ばかり内野地区に住んだことがあり、愛着のある町である。一時はここに家を持つことも考えたほどである。これからの会の活躍を期待したい。
この橋は新潟市西区の内野地区にあり、二級河川新川を横断して架かっている。国道116号を巻方面から来ると、曽和の交差点でまっすぐに新潟西バイパスを行かずに、左折するとすぐに槇尾大橋があり、その左手の下流側にある。
その起源は江戸時代後期に遡る。その当時西川は既に用水河川となり、その河床は高くなっていた。そのため鎧潟、田潟、大潟などのあった西蒲原地域の排水を受け持つ早通川を直接に日本海に落とすために計画されたものが新川(放水路)だった。
文字どおりの新川であり、西川の下を木製の底樋で抜き、内野の砂丘を切り崩すという難工事であった。足掛け3年の工事により文政3年(1820年)に完成した。
この時点で、川の立体交差ができあがった。その後木製の底樋は大正時代にレンガを使ったアーチ型のものとなり、昭和30年に現在の水路橋となった。
この新川完成以後、西蒲原地域の潟の干拓は徐々に進み、昭和41年には最後となった鎧潟の干拓が終わった。
いまではこの西川水路橋と新川を核に、「越後新川まちおこしの会」が中心となって、内野地区のまちづくりをやっている。
写真にあるように昇り旗が水路橋に掲げられている。
私も4年ばかり内野地区に住んだことがあり、愛着のある町である。一時はここに家を持つことも考えたほどである。これからの会の活躍を期待したい。
最近のコメント