西川(その1)2008/04/20 18:00

西川水門
西川は燕市大川津の信濃川と大河津分水路が分派する地点から分派して新潟市西区平島で再び信濃川に合流する一級河川だ。
今から400年位前には、この西川は信濃西川、現在の信濃川は信濃東川と呼ばれていたと言う。その頃の絵図ではどちらの河川もほぼ同じ太さで描かれている。
それが直江工事をきっかけに信濃川の主流が次第に東川になったという。この直江工事とは、来年の大河ドラマ「天地人」の主人公である直江山城守兼続を奉行として実施された。
その後、次第に西川は主に用水の供給のための河川となった。
今ではその姿はまったく異なる。合流点に立つとその幅も堤防の高さも全く異なる。西川から信濃川を見ると堤防が聳え立ち、水門が見える。
その横には排水機場もあり、信濃川が洪水の時には水門が閉まり、最大50m3/sの水がポンプで信濃川に排水される。
しかし、その西川も下流部は天井河川で、西川沿いには排水機場が幾つもあり、流域の水は常時ポンプで汲み上げられている。
いわゆる2段排水と言う方法で治水が行われている。
今回はこの西川を新潟市西区の平島から内野まで歩くことにした。
終点部は西川水路橋がある。この橋の下には二級河川の新川が流れている。すなわち、河川の立体交差がある。
この経緯は次回以降に紹介したい。
なお、新潟県には河川の平面交差もある。これについても機会を見つけて紹介したい。

西川(その2)2008/04/20 18:10

西川水路橋
西川水路橋の話をしたい。
この橋は新潟市西区の内野地区にあり、二級河川新川を横断して架かっている。国道116号を巻方面から来ると、曽和の交差点でまっすぐに新潟西バイパスを行かずに、左折するとすぐに槇尾大橋があり、その左手の下流側にある。
その起源は江戸時代後期に遡る。その当時西川は既に用水河川となり、その河床は高くなっていた。そのため鎧潟、田潟、大潟などのあった西蒲原地域の排水を受け持つ早通川を直接に日本海に落とすために計画されたものが新川(放水路)だった。
文字どおりの新川であり、西川の下を木製の底樋で抜き、内野の砂丘を切り崩すという難工事であった。足掛け3年の工事により文政3年(1820年)に完成した。
この時点で、川の立体交差ができあがった。その後木製の底樋は大正時代にレンガを使ったアーチ型のものとなり、昭和30年に現在の水路橋となった。
この新川完成以後、西蒲原地域の潟の干拓は徐々に進み、昭和41年には最後となった鎧潟の干拓が終わった。
いまではこの西川水路橋と新川を核に、「越後新川まちおこしの会」が中心となって、内野地区のまちづくりをやっている。
写真にあるように昇り旗が水路橋に掲げられている。
私も4年ばかり内野地区に住んだことがあり、愛着のある町である。一時はここに家を持つことも考えたほどである。これからの会の活躍を期待したい。

西川(その3)2008/04/20 18:20

平島付近の西川
西川水門の近くに車を停めて、さあ、出発だ。
4月も20日となり、桜のシーズンも終わりを告げているが、まだまだ新緑には遠いが、チューリップや菜の花が出迎えてくれるはずだ。
西川水門は開いていて、川の流れは緩やかで清流とは言えない。
信濃川の堤防から左岸側の堤防を降りる。
まず、目に付くのは河川管理区域境界標だ。信濃川は一級河川で、国土交通省の管理だ。そこに合流する西川の水門と排水機場も国土交通省の管理となっている。水門は堤防の機能を有するものであり、そのことから一般的に水門は本川を管理するものが管理している。
この境界標から上流が新潟県の管理である。
ここから県道の平島橋まで、左岸側は人が歩ける程度の道がついている。右岸側は道が繋がっていないので、左岸側を歩く。
護岸は両岸とも鋼矢板である。ここから内野の手前まで殆どがこのような護岸である。
水面には上流から流れてきたのだろうか。桜の花びらがあちらこちらに浮いている。
護岸には多くの小型のレジャーボートが繋がれている。ここを基地にして日本海まで出ていくのだろうか。しかし、その横には係留禁止の立て札がある。河川は自由使用が原則で、占用的な利用は原則として認められていない。船舶の係留は洪水時に流されて橋梁などに引っかかるなど問題があるため認められていない。
このあたりの右岸側は小新、左岸側は平島であり、川の近くには古くからの集落がある。中には大きな敷地と屋敷もある。
歩き始めて、5分程度で平島橋に着いた。
その上流に鉄橋が見える。

西川(その4)2008/04/20 18:30

廃線の鉄橋
平島橋を過ぎるとすぐに鉄橋が架かっている。これは新潟電鉄の廃線に架かる鋼製の下路式プレートガーターの橋だ。廃線になってもう何年経つだろうか。黒埼に引っ越してきてから、県庁に通うのに何回か乗ったことがある。
平島橋から小針橋までの間は、左岸側に川沿いの道はない。
右岸側もしばらくは車道のみで歩行者がゆっくり歩く空間はなく、車を気にしながら上流に向かう。
この辺の西川は天井川となっていて、普段の水位も家屋の2階レベルより高い。
しばらく上流に向かって歩くと車道は二股に分かれ、一方は堤防を降りる。今回は当然ながら堤防を降りない右側の道路を行く。こちらは車も殆ど通らず安心して歩ける。
堤防の上のはずなのに川面が見えなくなった。なんと堤防と川面との間に家が建っているのだ。これが信濃西川の名残である。
その頃は川幅が広かったが、用水河川となった後は必要な川幅は狭くなり、その間が戦後に宅地化されたのだ。左岸側も同様でそのために歩けなかったのだ。昔の名残はその他にも随所に見られる。

西川(その5)2008/04/20 18:40

大河の名残
ここで大河の名残の一つを紹介したい。
写真右側の道路は昔の堤防で、左側の住宅の後ろに現在の堤防があり、川が流れている。
右側の道路の路肩には篠竹が一列に生えていて、その後ろに昔からの民家がある。この篠竹は今で言う「水害防備林」の役目を果たしていた。
洪水で溢水したとしても篠竹で流速が落ちるとともに土砂を置いていく。このために住宅に大きな被害が生じることもない。それに加えて、篠竹の根が張ることにより、堤防が欠けることも防いでいる。
このように堤防の堤内地側に篠竹などが生い茂っている例は越後平野の随所に見られる。信濃川や中之口川でも堤防道路を走っていると至る所にある。
昔の人たちはこうして、地域のことは地域自らで守ってきた。現代のような河川改修が行われる前は当たり前に行われていた知恵であり、水防技術であった。