西川Part2(その1)2008/06/14 21:00

今回は4月に引き続いて、西川を歩きました。
今日は6月14日土曜日です。新潟の梅雨入りはまだで、気温もそれほど上がらず、空に雲が少しあるものの爽やかな一日でした。梅雨前の今頃は新潟では一年中で一番いい季節だと思う。
さて、自宅から車で内野にあるホームセンターまで行き、そこの駐車場に車を止めた。
午後3時半頃に西川が新川と立体交差する場所から上流に向けてスタートし、なんとか西蒲区曽根(旧西川町)まで川沿いを歩き、越後曽根駅から内野駅まで越後線に乗って帰ってきました。
立体交差の橋は次回以降に述べるとして、ここから上流も昔の大河の名残が見ることができます。
堤防と堤防の間は狭いところでも100m近くあり、昔からの農業集落が西川沿いの堤内地に延びています。堤防上に集落があると言ってもいいくらいです。左右岸とも堤防上は殆ど生活道路となっていて、かなり敷地の広い農家があり、その後ろに田圃が広がっています。
いっぽう川側を見ると高水敷は田畑として利用されているところが多く、そのまま護岸となったり、水際には新たな堤防が築かれている場所もあります。
堤防を歩いていると片方に豊かな農業集落、片方に西川が見え、車の通りも少なく気持ちの良い風景が続いています。

西川Part2(その2)2008/06/14 21:10

水路橋案内板
新川と西川の立体交差の話は既に書きましたが、最近、水路橋の脇にこれらの歴史を記した案内板が設置されました。
前回はこのことを紹介するのを忘れたのであらためて紹介した次第です。
今回の西川歩きはこの案内板が起点です。
ここから水路橋に設置してある管理用の歩道を渡り、すぐ上流にある高山小橋を目指しました。
だが、西川沿いを歩くことができず、新川沿いを少し上流に行き国道に出てから高山小橋に行きました。
さらにその先も西川沿いを歩けず、笠木集落まで困難な道のりが待っていました。

西川Part2(その3)2008/06/14 21:20

西川を守る会看板(高山小橋付近)
西川沿いには様々な看板が立っている。
特に目立つのは、「中野小屋地区西川を守る会」の看板だ。この会がどのような会で、現在どのような活動をしているのか分からない。看板も新しいものではない。
中野小屋(なかのごや)は新潟市西地区の西川沿いの代表的な集落(大字)で地区名ともなっていて、中学校もここにある。
写真にある看板の標語は中野小屋中学校の生徒が考えたものだ。
「川の汚れは心の汚れ 清き流れを今ここに」
この看板が何年前に立てられたか分からないが、この標語を考えた生徒はもう既に成人しているだろう。子供もいるかもしれない。今は西川とどのような関わりを持っているのだろうか。
今の西川を見てどのように思っているだろうか。川の中のペットボトルなどのゴミを見ると、当時に比べて決して汚れが改善しているとは思われない。
標語はこの他にも次の様なものがある。
「その川は あなたの心を映す鏡」
「川をごみ箱にしていると いつかあなたに仕返しが」
「みんなで守ろう知恵の川 守ろう わが西川」
「一回だけ その一度が汚している」
みんながこのような心を持ち続け、子供に伝えていけば川はきれいになるはずなのだが。

西川Part2(その4)2008/06/15 21:30

西川堤防から見た越後善光寺
今日の目的地の越後曽根までもう少しという所の西川右岸側に善光寺という集落があり、そこに「越後善光寺」がある。その前の西川には善光寺橋も架かっている。
このお寺は弘治元年(1555年)に大関阿波守盛憲が開いたとされる名刹だ。大関氏は上杉家の家臣で、その子である親憲は上杉家とともに会津、米沢と移っており、来年の大河ドラマの主人公である直江山城守兼続と共に軍奉行を努めたこともあるという。
このお寺の如来堂には長野の善光寺の本尊と同体の木像「善光寺式阿弥陀如来三尊像」を安置してあり、そのため越後善光寺として知られている。
善光寺は男女を分かたず、昼夜を問わず、宗派を超えて開放され、信者を受け入れて庶民の心の拠り所となってきました。そのためその信仰は全国に広がり、全国には443の善光寺仏があり、「善光寺」を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺にものぼり、新潟県内にも善光寺と名の付くお寺は5つもあるとのことです。
さて、この越後善光寺の正面は西川を向いていて、参道は西川堤防に繋がっている。創建は1555年であり、その頃は西川は「信濃西川」と呼ばれていた。
また、西川沿いの集落毎にある諏訪宮などの神社も西川に向かって鎮座されている。これらの神社がいつ創建されたかは不明であるが、西川が蒲原平野の人と文化の一大動脈だったことを裏付けているのではないかと思う。

西川Part32008/06/22 21:00

西川ふれあい公園とだいろの家
新潟もホタルのシーズンとなった。今日は岩室温泉の「冬妻ホタル」をみることを最終目的として、先週に引き続き、西川を歩いた。
岩室駅近くに車を留め、午後3時21分の越後線電車に乗り、越後曽根駅まで行き、西川沿いに歩いて巻を経由して岩室駅まで戻ることとした。
旧西川町中心地の曽根は長岡藩の代官所が置かれた場所で、この地方の中心地だった。代官所跡地は曽根小学校となっていて、今でも当時の樫の木が残っている。
旧西川町の名前は西川沿岸にあることから付けられた。明治22年に西川村ができたが、その時は西川の左岸側だけで曽根などの右岸側は含まれていなかった。明治34年に鎧郷村の一部となり、一旦は西川村の名前が消えた。その後昭和30年に曽根町と鎧郷村の一部が合併して旧西川町となったという。鎧郷村の名前は現在でも小学校の名前に残っている。なお、「鎧郷」とは、その当時、西川の右岸側に広がっていた「鎧潟」近傍の村々が集まったことから名付けられた。
さて、川沿いを歩きたいが住宅が建っていて川面が見えない。しばらく左岸側の旧堤防の道路を歩くと、「西川ふれあい公園」に出た。
この公園は旧西川町と新潟県が共同で整備した、2.4haの親水公園だ。河川の護岸を含めて親水部分は河川管理者の新潟県が整備し、その他の部分は旧西川町が整備した。今日は休日なので家族連れの姿が見られる。
こうした親水公園は一時期、各地で整備されたがその管理が行き届かない所も見受けられるが、管理も行き届き、水の広場の噴水が涼しげだ。この公園にはこの他にも芝生広場、ちびっこ広場、曽根代官所を模した「だいろの家」、体育センターがある。
今はアジサイの花が見頃である。