新川と鎧潟跡2009/09/27 21:25

潟の痕跡と角田山(川は飛落川)
今日も「水と土の芸術祭」作品見学を兼ねて、川めぐりをした。
今回は5月に下流部を歩いた新川を再び訪れ、残る区間をめぐり、鎧潟の跡まで行った。
田潟橋から鎧潟跡までの区間は田んぼ中で単調であるので、車一台がようやく通れる堤防道路を車でゆっくりと巡った。
周囲は見渡す限りの田園であり、所々に人家があるが集落といえるものはない。
このことはこのあたりは昔から低平地で人が住める所ではなかったことを物語っているのだろう。
この点は既に紹介した西川とは異なる。西川の両側には大きな集落が貼り付いていた。
遠くには角田山がぼんやりと見えている。この点は西川と同じである。
さて、アート作品は鎧潟の跡にある。
跡にあると言うよりは、「わずかに残された潟の痕跡を探しポール立て、この地区の昔の自然資源と干拓前の暮らしを考える」ものであり、鎧潟の跡を再現している。
その名もずばり「ここに鎧潟ありき。」である。
1820年に新川が開削された後、下流の田潟、大潟は干拓が進んだが、鎧潟は依然として残されたままであった。
そのため昭和34年から国営の鎧潟干拓工事が始まり、41年には全面的に干拓された。
この作品は270ha以上あった当時の潟の痕跡を示したものだが、あまりに広く茫漠としていた。
鎧潟クリーンセンターの展望台から眺めて当時の潟の姿を想像した。
今は、稲刈りの時期を迎え、コンバインが動く姿があちこちに見られるが、潟周辺の人々と潟とのつながりが確かにあった。
この干拓により美田となったが、現在の農業の姿を見ているとそれが良かったのかどうか分からない。